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良い加減を受け入れていきたい | あかいとり

良い加減を受け入れていきたい | あかいとり当事者
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こんにちは、あかいとりです。

今までの生い立ちを書き綴っていきたいと思います。お時間がある方は、目を通して頂ければ幸いです。

誕生

1978年9月誕生。生まれたのは、母の実家近くの産院でした。出産予定日を2週間過ぎても陣痛がこなかったので、陣痛促進剤を使用し生まれました。

その後は埼玉に居を構え、約2年後に妹ができる頃に、また東京に戻ってきたと母から聞いております。私はなかなか言葉を話すことが遅かったらしく、祖母からは知能の遅れがあるのでは?と心配されていたようです。

幼稚園時代

しかし、幼稚園に入園する前にひらがなを覚えたりなどは早かったようです。その頃は、近所に同い年の女の子と男の子の幼馴染がいました。毎日のように遊んでいた記憶が、ごくわずかですが残っています。

小学校時代

クレヨン

小学校入学と同時に、男の子の幼馴染は私と行動やおしゃべりをするということがなくなり、私はその事がとても不思議に思っていました。鈍感なので、男の子と女の子の心の違いを読み取るのが苦手なのだと今も思います。

入学早々に仲の良い女友達ができました。しかし2学期に入り、他の女の子のグループに入って行ってしまいました。私も一言「仲間に入れて!」と言えれば良かったのに…当時の私はその言葉さえ思い浮かびませんでした。

常に受け身だった自分がいました。

ひとりぼっちになった私は、授業の2時間目あたりでおなかが痛いフリをして、仮病を使って保健室に逃げ込みました。登校拒否という行動を取ることもできませんでした。

小学3年生でクラス替えがあり、そこでまた友達ができました。その頃は楽しくて楽しくて…遊びまわっていました。その様な状態のまま、小学校を卒業しました。

中学校時代

中学校は何ヵ所からの小学校が混ざり合って様々な人の集団でした。私の時代は1学年5クラスありました。そしてなぜか、私の担任は3年間変わらなかったので緊張することはありませんでした。スマップ好きな女友達や、部活友達など友達の輪も広がっていきました。

最初は楽な部活で美術部を選びましたが、母の勧めでバドミントン部へ途中入部しました。体を動かすことはとても楽しかったのですが、新入生部員として先に入部していた人たちと技術の差があり、その差をなかなか埋めることができなかったことが悔しかったのを覚えています。

私の時代は中学校が荒れていたのは終わっていたので、中学時代は平和でした。しかし、先輩との格差などは残っていました。この頃から女子生徒と普通に接することもできましたが、男子生徒との方が気楽だなって感じていました。そして、登校時間がとても早い時間になって行きました。私が知る限りでは、イジメはあまりなかったと思います。

中学3年生の進路を決めるときに、私の行きたい高校と両親の考え方の違いや、毎日始まる両親の喧嘩が、今の私の地盤を作ったと言っても過言ではありません。

まず両親の喧嘩ですが、父親はギャンブル依存症、アルコール依存症、タバコを吸う人でした。家でも毎日浴びるようにお酒を飲み、母親とも喧嘩で、私たち姉妹は家での居場所がありませんでした。

母はこの頃、お金に固執する人でした。子供のことなど考えてくれる両親ではありませんでした。私はもうガンガンと両親に意見を言えましたが、妹は中学に入学したてで意見など言えませんでした。

そして私の進路としては物を作ることに興味があったので工業高校に進みたかったのですが、両親の反対にあい普通科に変更しました。

せめて通学先が近くてアルバイトができる都立高校を希望していたのに、またもう少しレベルが高い高校を希望すると、両親と中学の担任から反対にあいました。私はレベルなど気にしていなかったのに、ことごとく反対にあって私の希望など聞き入れてくれませんでした。

当時は、私の希望を聞き入れてくれない大人に不満ばかりありました。そして両親の喧嘩ばかりでお互いの考えを聞き入れず、自分の希望ばかりを押し付ける姿に嫌気がさして、離婚をしてくれと私は伝えました。

両親を反面教師として今まで生きてきました。

  • 好きあって家族となったのに、最後は喧嘩ばかりになる。
  • アルコールを日常から摂取すると、父のようにやめることができなくなる。
  • タバコを吸えば体に悪いし、浪費になるので吸う気はない。
  • ギャンブルには手を出さない。
  • 友達でいれば友情は続くけれど、特別な関係になると縁が切れれば終わり。

さらに反抗期の時期に余計な面倒をかけることができず、私には反抗期がありませんでした。

私が中学卒業と同時期に、ようやく離婚してくれました。

高校時代

コンバース

第一志望だった都立高校へ進路が決まり入学しました。制服は標準服と呼ばれており、私服でも通学OKの校則が非常にゆるい高校でした。4月にピアスを開けたのもこの年でしたね。

高校生にもなるといろいろな学区からの入学生であり、男女一緒におしゃべりしないことにびっくりしました。男子生徒は男子生徒と話し、女子生徒は女子生徒と話していました。

私は隣に座っていた男子生徒と仲良くなり、毎日早めに通学してはおしゃべりしていました。その男子生徒とは部活も一緒でした。

漫画・イラスト研究部に入部し、委員会では図書委員になりました。部活は週に2回ほどの活動でしたが、主な活動内容はおしゃべりでしたね。

図書委員では副委員長に選ばれ、図書室には毎日のように通っていました。部活では仲良くなった女子生徒と、これまた仲良くなった男子生徒も入部していたのでとても楽しい時間でした。

図書委員では司書さんがとても素敵な女性で、ピアスを頂いたりもしました。私にとってピアスが唯一のおしゃれになり、最終的には右耳に3つ、左耳に4つのピアスホールを開けて、ジャラジャラと色々なピアスで楽しんでいました。

この頃の流行は、先日引退された安室奈美恵さん風のファッションが流行り、日焼けサロンで肌を焼き、ルーズソックスを履いて、ポケベルが発売されていました。ポケベルにメッセージを入れるために、公衆電話に大勢の生徒が並びました。

私は流行には乗らず、ここでもマイペースに自分の世界だけを楽しんでいました。

初めてアニメイトに行った時、普通に本屋で出版できるレベルの幽遊白書の同人誌が発売されており、その頃からBLというジャンルにハマっていきました。当時アニメイトがあった辺りにK-BOOKSがオープンし、通い詰めました。

この年でも金銭感覚は今と変わりありません。本も新品で購入するのではなく、中古で購入することが当たり前でした。このような経緯は理由があります。

母が通学定期を買うお金などを出してくれなかったのです。私が通学していた学校は学食がなく、お弁当持参が当たり前でしたが、母が作ってくれることはありませんでした。

今では母を恨む気持ちなどありませんが、当時の私はその状態が当たり前と考えており、お金に対してシビアな感覚を持っていました。削れるところは削り、余計な経費は認めないと。

高校時代にしたアルバイトは、年始年末の郵便局のはがき仕分けの仕事、スーパーのレジ打ちなどです。

高校生の時、私は無知でとても残酷なことをしました。高校2年生の時に後輩からハムスターの子供をもらったのですが、かわいくて仕方なくてどうしてもその子の子供が欲しくなり、さらにペットショップでメスのハムスター2匹をお迎えしました。

ハムスターの繁殖力を侮っていたのです。

一緒のゲージに入れて生活させていたら、いつの間にか5匹の赤ちゃんが生まれました。それを繰り返し、最後にはハムスターが25匹ほどまで増えてしまったのです。

もらっていただける方を探しまくり、最終的には10匹まで減らすことができ、その子たちは最後まで責任をもってお世話しました。何も調べず、動物を家族としてお迎えをすることの怖さを、この時はっきり自覚したのを覚えています。

無知であることの罪を今でも忘れずにいます。この出来事は、私が動物看護士を目指すきっかけになりました。

この時代に動物看護士の専門学校ができ始めました。この進路のことでまた母と衝突しました。母は短大を出て、OLになってほしかったようです。

私の人生は私の物だからと母に反抗し、初めて自分の進みたい道への第一歩を踏み出せた瞬間でした。

3年生の担任は、丁度学校まわりをしていた動物看護士の専門学校を勧めてくれました。そこは特にテストもなく、面談と小論文のみでした。私が入学した時は3期生だったので、本当にできたての学校でした。

11月に出願をしに行くと、すぐその場で面談をして頂き合格しました。え?と思いましたが、すぐに進路が決まりホッとしました。

1月には自動車の教習所にも通い始めました。これは母からの提案でした。免許は取っておいて損はない、という考えだったのかもしれません。3学期はほぼ授業もなかったので、実技と座学もすぐに終えました。しかし最後の東陽町の試験場に足を運ぶことが重く、18歳の夏にようやく免許を取りました。

たまたま友達がはがきを出したら、少し安く海外旅行に行けることになり、18の時にカナダに卒業旅行に行きました。氷河で滑ったのは私だけだったというのもいい思い出です。

高校は無事に卒業することができました。

専門学校

できたての専門学校。入学枠は50名のところ20名強の入学者数でした。男子学生は3名ほどだったと記憶しています。

ここでもグループができており、ほぼグループ内でしかコミュニケーションが取れない状態でした。2年生になってから私と同じ系統の漫画やアニメで盛り上がれる人に出会え、その時も楽しかったです。

アルバイト先は変えましたが、レジ打ちの仕事は続けていました。そろそろ就職先を決めないととは思っていましたが、その当時の動物看護士の求人はとても少なく、母にはアルバイトを続けながら仕事を探していきたいと訴えましたが却下。すぐ探してこいと言われ、通勤に1時間半かかる動物病院にアルバイトとして入社しました。

専門学校も無事に卒業でき、社会人のスタートを切りました。

動物病院

動物病院

働き始めた動物病院は、トリマーの仕事ができる人を優先している病院でした。朝は9時から夜は19時までが診療。12時から16時までは休憩でしたが、その間も手術したり、検査したりで意外に大変なんですよね。休憩を1時間など取ったことありません。取れても15分がせいぜい。手術が4件入っていることもありました。

お盆や年始年末はペットホテルにも対応していましたので、そのお世話に追われていました。全部お預かりしている動物を含めると、40匹以上いました。

給料も手取りで12万がいいところ。交通費を含んでの手取りです。そこから国年保険など自費で支払っていました。さらに実家にいましたので、生活費として月3万入れていました。当時の私はお金を使う時間さえありませんでしたので、約1年半ほどで100万円を貯金できました。

早番の時は9時から19時。それでも勤務時間は10時間。遅番で9時から21時くらいまで。

ブラックもブラックでしたね。

そんな職場でも退職はせず、3年目で正社員になることができました。後輩もでき社員にもなれたので、順風にいくと思っていました。

6月くらいからまず食欲が落ち、お昼ご飯にプリンしか食べないなど珍しくありませんでした。7月には私の動きがとても遅く見えたらしく、院長から「やる気がないなら帰れ!」と怒鳴られたこともありました。

私は入社2年目くらいから電車通勤ではなく、スクーターで通勤していました。スクーターだと50分ほどで着くので、朝と夜の通勤時間が30分以上縮まりました。

そして、忘れもしない隅田川の花火大会の日。

この日はもしかしたらっていう勘が働いたのでしょうか。スクーターは30キロが最大速度です。それを守って走っていたところ、無灯火で逆走してきた自転車と衝突事故を起こしてしまいました。私は怪我もせず、相手のおばさまを念のため病院へ搬送。その間、私は警察で事情聴取を受けました。

夜中には解放され母にも連絡を取っておいたので、夜中に迷惑だとはわかっていても、相手方の自宅に連絡を入れました。その方は何の怪我もなくホッとしましたが、次の日に謝罪に行きました。

相手の旦那さんもきちんとした対応をした私を責めることはせず、許しを得ることができたので、大きな事故にはならず私もホッとしました。相手の乗っていた自転車を弁償することで話がつき、すべて自賠責保険で賄うことができました。こういう時、本当に最低限の保険も必要と感じますね。

そして自分自身がおかしいと感じたので、今かかっている精神科へ足を運びました。

診断名はうつ病。

緊急に入院が必要と判断されましたが、断固拒否しました。当時の私のイメージでは閉鎖病棟しか頭になく、偏見に満ちていました。

自宅で療養することになり、食事はプリンかコーンスープのみ。薬を飲み始めてから寝たきりになり、1か月ほぼ布団から起きることが出来ず。トイレや入浴などはできました。

動物病院は休職になりましたが、一月後クビを言い渡されました。病院都合で辞めることになるので、すぐに失業保険を受けられる状態にしてもらいました。

体を動かすことができれば復帰したかったのですが、今思えばこれでよかったかも知れません。ブラックな職場に戻っても、いい結果にならなかったと思います。

外に出る練習を母に付き添ってもらい、1日10m歩くことから筋肉をつけていきました。

この時代のインターネットは使った分だけ支払う方式で、1日30分ネットを見ただけで月6000円かかりました。携帯は20歳の誕生日の時に、今のソフトバンクにあたる会社に契約しました。

療養中

母に連れ添ってもらい、少しずつ体力を取り戻すために散歩を始めました。私がうつ病を発症したと同時に、飼い猫の病状も悪化しました。自我がなくなり昼夜問わず鳴いていたので、このままでは…と思い安楽死させました。

それしか救う方法がなかったのです。最後に私ができたことは、亡骸を洗って綺麗な状態で見送ることだけでした。でも最後まで看取れたので後悔はありません。

その後すぐに私がフェレットをお迎えしたいと騒ぎだし、母は反対しましたが、離婚した父が(強制的でしたが)フェレットを贈ってくれました。

薄情かもしれませんが、猫を見送っても泣くことはありませんでした。心のどこかで飼い主としての自分と、動物看護士としての自分の2つの視点から見ていたのでしょう。

この頃から「人を愛するってどういうことなんだろう?」と感じていました。愛情を注げる存在は動物だけでした。どんな人も友達としての好意しか抱けませんでした。

うつ病の経験が役に立つかもと思い、ヘルパー2級の資格を目指し、新宿まで毎日通学を始めました。通学だと1か月半で取得でき、通信だと3ケ月かかるので、通学を選びました。

私は人との交流が苦手になっており、おしゃべりできる方はいませんでした。しかし、なんとかやり遂げ、ヘルパーの資格を無事取得しました。

東京の管轄だと1年働いた証明がないとヘルパー1級の受講ができませんでしたが、私が通った学校は北海道の管轄だったため、ついでにヘルパー1級も取得しました。1級は通信になるので、週に1回だけ通学しました。そこでは仲の良い女性ができました。

そしてヘルパー2級を取得した後、一人暮らしをしている脳性麻痺女性の介護にアルバイトとして働き始めました。週に2日程度、時間は昼12時から夜22時までの10時間労働でした。普通にアルバイトするより、多少時給は良かったです。

精神科に通院して、アルバイトして、ヘルパー1級の勉強もしました。無事にヘルパー1級を取得でき、アルバイトは約1年ほどで辞めました。

また引きこもりに戻ってしまい、母からは働け!働け!と追い詰められ、当時飲んでいた睡眠薬をため込んでいたので、夜中母が眠ったすきに睡眠薬を100錠以上飲みました。

起きたら病院のベッドの上で、何が起きたのか覚えていませんでした。

母が発見した後、救急車で運ばれたようです。胃洗浄するほど薬の効果がなかったので、そのまま目が覚めるのを待っていたそうです。診察した先生は、私は入院しない方がいいと判断されたみたいです。

その事があってから、母はあまりきつく働けと言わなくなりました。私がODしたのは、当時の私ができた精一杯のSOSだったのです。

少し間をあけて、その後はコンビニの夜勤で働き始めました。その時も週2日、22時から7時まで。主に配達された納品物を並べ、お客様が来たらレジを打つ程度でした。最初は良かったのですが、だんだんと体と心が辛くなりまた辞めました。

今のように、母に私の病状を理解してもらえるまで時間はかかりました。精神科に通院するにも診察代などバカにならないので、自立支援が受けられることを知り、すぐに区役所で手続きしました。負担が1割になって助かりました。

今の状態になるまで働いた場所は、特別養護老人ホーム、多機能型居宅介護、他の障害者の在宅介護を転々としました。

時には母から出ていけ!と言われ、次の日には一人で不動産屋で部屋を決め、までは話が進んだのですが、また母からストップがかかったので一人暮らしは諦めました。

この頃はまだ母の支配下にあり、いいなりになっていました。

自立を目指して

change

39歳の春過ぎに、いきなり捨活(すてかつ)を始めました。アルバイトしては辞めを繰り返し、最後は何年かひきこもりになっていました。髪は伸び放題、お風呂は毎日入っていましたが、外出はお菓子を買いに行く程度。欲しい本はネット通販でしたね。

物は増えていく一方でした。床も本で見えない状態で、散々片づけなさいと母に言われていたのに、全くやる気がありませんでした。

40歳を前にして、突如「自立をしなければ!」と思いが芽生え始めました。

この先の自分の人生を変えなければと思い、まずはたくさん持っていた本をどんどんネットの買取業者に送って買い取ってもらいました。もう着ない服は、区の古布回収ボックスがあったので、そこに何往復もして減らしました。髪も切り揃えて、今ではボブカットに落ち着いています。

次に探したのは通所場所です。自立生活支援センターを見つけたので、まずは区役所に詳しい話を聞きに行きました。保健師に話を通してもらい、3日間の体験をして役所から通所許可を頂き、そこに約1年間通所しました。

そこに通所する目的は、メンバーとの交流、生活リズムを作ることです。週に2日程度から通所を始め、メンバーとの交流もうまくいき、生活リズムを整え始めました。

その頃、ばなうたをネットで見つけ、ずっとオフ会に参加させて頂いています。

そして一人暮らししたい!
自立するなら今だ!

と思ったのもこの時期でした。知り合った方から様々な情報をいただき、物件も見つけることができました。

40歳の1月に、一人暮らしがスタートしました。家事などはやってみると、一人分なのでそんなに手間もかからない。やってみるとできるものだなーと思いました。

シンプリストやミニマリストの存在を知ったのもこの時くらいですね。色々な人の生活スタイルを見るのが大好きです。色々試してみることが楽しくて、今も自分で情報を探しては試しています。

交友関係も広がっていき、今はとてもトントン拍子に進んでいます。

反動が怖いですが・・・。

そして41歳の11月に、作業所のB型に移行して今に至ります。たまたま、前の通所先で今の作業所を見学することができ、雰囲気がとても良く、直感で「ここで働きたい!」と強い思いが湧いてきて、私の担当スタッフにすぐに伝え、私はそこで働けるように体力作りを始めました。

しかし、前の通所から今の作業所に移行する時期の都合がなかなか合わず、私にとってはじれったい時期でした。

ようやく移行できたのは、41歳の11月からです。まずは週に2日、1日3時間から働き始めました。今でも働く日数は増えていませんが、調子が良い日は、1日4時間半ほど働ける体力がつきました。数年は今のところでお世話になるつもりです。

時々色々考えてしまったり、先走ってしまったりしながら、周りのサポートも頂き、なんとか先が見えてきた気がします。

今の私の病状

最初はうつ病と強迫神経症の診断でした。今もその診断は変わっていません。この病気と生き続けてきて、他に発達障害とHSPの気質が自分にはあるなと受け入れている状態です。

人に愛情を向けることができなくて、愛情を注げる唯一の存在は動物だけだったため、動物依存でした。今では自宅に動物がいなくても、保護犬ボランティアや友達の飼い猫を撫でさせてもらうことで心は満足しています。

一つの物にとことん執着したり、多動性と衝動性、聴覚・視覚・嗅覚・味覚の敏感。白か黒かの世界しかなかったのに、最近はグレーゾーンを少しずつ広げられるようになりました。

良い加減(よいかげん)を受け入れていきたいのが目標です。

ただ物を持ちすぎることはストレスなので、ストックを持たないようにしています。今現在の持ち物は、自分にとって必要な物だけに絞っていますので、管理がとても楽です。

私の経験談

レールを歩く女性

病気を発症して約20年ほど。今ではいかに病気とうまく付き合って生きていくことが大事か分かります。そこまで納得して生きていくことができるまで、何年もかかります。病名がはっきりすることで、ホッとする方もいらっしゃると思います。

ただ私がお伝えできるのは、自分ひとりではなく、色々な方のサポートを受けられることを知っておくことが大切だと思います。話を聞いてくれるだけで安定する方もいます。

十人十色。

焦りも、自分の病気を受け入れるまで辛いことも、知っています。時には立ち止まって後ろを振り向くことが大切です。その経験は無駄ではないのです。自分が受けた苦痛やマイナスな感情を知っている分、他の方に対して理解できるし、優しい対応ができる人になっていけると思います。

まずは休むことが私たちの仕事です。

時期が来てエネルギーを蓄えたら、また次のステップに行けます。年齢も関係ないです。様々なことにチャレンジするのに年齢は関係ありません。

今の私の夢は、調理師試験を受けることです。

この夢をかなえるには、数年の時間がかかります。

でも私はこの夢だけに向かって、仕事を続けていきたいです。

当事者
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この記事を書いた人

あかいとりです。
うつ病と強迫性障害と診断されています。
生活と考え方はシンプルに。
を心がけています。

よろしくお願いします。

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ばなうた

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