はじめまして、満州参謀です。
ごついハンドルネームですが、小心者です。駄文ですが、お読みいただけたら幸いです。では、どうぞ!
僕という人間
一言でいうと、ひたすら逃げてきた人生でした。
勉強からも逃げ、仕事からも逃げ、厳しいことから逃げ続けてきました。だから根性というものがなく、すぐ折れてしまいます。折れたらすぐ投げ出すそんな感じでした。
成功体験が無いに等しく、何に対しても自信がないです。人前ではスラスラ話せず、頭が真っ白になり言語不明瞭になります。
自分に甘く、他人にも甘い。
臆病で曲がったことができないゆえ許せない。さみしがり屋のむっつりスケベだと思います。
ハンドルネームの満州参謀というのは、満州事変が起こった時、満州で参謀をしていた石原莞爾という方にはまっていたのでつけました。ただ今は、軍人でいうと石原莞爾より山本五十六の方が好きですね。
病気にかかってから現在まで
病気の発端は仕事と思われます。一時期プログラマーをしていました。
仕事自体はそこまで嫌いではなかったのですが、人前で話すことが苦手で仕事のミーティングや会議、飲み会がとにかく嫌でした。それがストレスになったのか、眠れない・眠っても寝汗がひどくて起きるの繰り返しでした。
とりあえず睡眠薬をもらおう!くらいの軽い感じで、メンタルクリニックへ行きました。
そこで鬱と診断されましたが、あまり衝撃は受けませんでした。その時は、希死念慮が強く出るということがなかったですし。
とりあえず睡眠薬と薬をいくつか処方され、仕事に行っていました。しかしそれから急に落ちていき、仕事中にトイレに籠ったりしてどんどんしんどい状況に・・・。
最初に通院していた病院では、リ○リンが処方されていました。その影響か、言動や行動が明らかにおかしいと友人に別の病院へ連れていかれ、入院を勧められましたが断固拒否をしたのを覚えています。
会社へはひと段落するまで行き、退職してからは自宅療養していました。希死念慮が強くなる一方で、薬が効かないと捨て、薬を飲むのをやめたり、通院をしなくなった期間もありました。
その後、ODして救急車で運ばれたり、部屋で練炭を燃やしたり、色々しました。最後はODしてフラフラになってる状態で、カッターで手首を切りました。
そこで突然バーンと警察官が入ってきて、そのまま閉鎖病棟に措置入院となりました。その警察官が現れた理由は、僕が自殺する!と友達にメールを送り、受け取った友人が通報したからでした。
入院生活は最初の一週間くらいは、独房のようなところ。
内側からは扉は空かず、天井近くの届かない壁に光を入れるための割れない嵌め殺しのガラス窓がありました。あとはトイレだけ。トイレのプライバシーは一応守られていました。
幻覚・幻聴がとにかくひどく、何しても動かない幻覚の虫をとにかく追い払おうとしたり、隣に人なんていないのに、隣から聞こえてくる声に耳を澄ませたり応答していました。
その独房がとにかく息苦しく感じたりもして、開けろー!とドアを思いっきり叩いたりもしました。ただそのドアは叩いても全くびくともせず、音も全くしない仕様で手が痛くなって疲れるだけでした。
ちょっとしたら落ち着いて、集団部屋に移されてからは、快方に向かいました。
ただ入院患者に同世代がいなくて、友達どころか会話する人がいなくてとにかく暇でした。そんなこんなで入院は2か月弱して、退院するとき、仕事は一年待て!と言われました。
もう大丈夫と自分で思い込んでいて、一年待たず短期のバイトをちょっとしたりしました。ですがやっぱり仕事は嫌で、短期のバイトが終わったらまたひきこもるようになってしまいました。
30歳近くになり、何かやらねば!と焦って清掃のバイトを始めました。
しかし突然休んだりすることが多く、大変迷惑をかけてしまいました。それを見かねて、近所のマンションの清掃へ移されました。
それは順調に続けられていたのですが、そのマンションの現場が無くなってしまいました。それをきっかけにまたひきこもりに戻り、34歳の時区役所でデイケアを紹介され通うようになりました。
デイケアは週一だったのですが、週一ですら負担で行く前に嘔吐してしまうことがほとんどでした。
35歳の時、僕の転機となるオフ会ばなうたに初参加しました。
この年病院を転院し、恵比寿にある病院に移りました。ですが、ごり押しの先生で僕にとっては厳しく、週一の通院が嫌で嫌で仕方なくなりました。
まさかの幻覚が再発し、その病院のカウンセラーに恨み言を言ったりと全く合わず、逃げるように前の病院に戻りました。
ばなうたには参加を続け、37歳の時ばなうたのスタッフとして活動開始。38歳の時、就労継続支援B型に通い始めます。通所初めの方は、まだまだ緊張も強く鬱になったり、ODをしたりして安定しませんでした。
次第に、ばなうたの幹事にも慣れ、就労B型での作業にも人間関係にも慣れて、気づいたら「死にたい」という感情が消え去っていました。
ただ39歳になった今現在も、
- 夏になると幻臭
- 出かけた帰りの夜道で背後に気配を感じる
- 薬飲み忘れると高い確率で体調が悪くなる
この三つの症状はだいぶ弱くなったとはいえまだ残っており、これは一生ものかな?なんて思っています。
現在はばなうたで色々なオフの幹事をしたり、作業所に週4で通っています。いつまで現状を続けるかは未定ですが、今がすごく楽しいので今の気持ちを大切にしたいと思っています。
どのような精神障害を抱えていますか?
統合失調症とうつ病です。現在うつ病は寛解していると思っています。
いつから精神障害を抱えてるのか?
2006年5月が初診です。最初は自律神経失調症とうつ病でした。2006年10月に入院したときに、統合失調症も診断されました。
どのような症状?
うつ病の希死念慮が強く出ました。
統合失調症の症状は陰性症状でずっと寝たきり、感情の鈍麻、やる気の減退。陽性症状で、幻覚・幻聴・妄想がバリバリ出ていました。
精神障害でこれまで大変だったこと
仕事を突然休んだりすることが少なくなく、当時一緒に働いていた方々に迷惑をかけてしまいました。
あとやはり友達は減りました。死にたい、死んでやるなどと言っていたら電話やメールしても、反応が無くなった経験は少なくないです。
あとは幻覚。僕の見えていた幻覚は、動きが止まっている虫でした。その虫に向かって殺虫剤をかけたり、叩き落とそうとしたりしていました。
今現在どんな治療を行っている?
今は薬物治療をしています。先生には一生薬は飲むよう言われています。僕もそれを納得してますので、薬が嫌ってことはないです。
わたしの日々の過ごし方
現在就労継続支援B型、いわゆる作業所に週4通っています。
土日のどちらかは、オフ会を開いたり、気の合う友達とボードゲームをしたりしています。残ったどちらかの土日は、家に引きこもり甥っ子と遊んでいます。
今の目標
まずは週5で作業所に通う!
次のステップとして、就労継続支援A型に通う!
最終的には障害者雇用で働きたいなぁと思っています。
わたしにとって回復に役立ったと思う活動
一つ目はオフ会の参加です。現在は、ばなうたのスタッフとして活動しておりますが、最初はいち参加者でした。
ばなうたオフ会の常連となり、幹事を引き受けるようになってから、より多くの方とコミュニケーションを取るようになりました。その活動がより良い刺激になり、回復に繋がっていったと思います。
二つ目は考え方を変えたこと。自分が病気であることを受け入れる。他人を羨んでも、その人になれるわけもなく、考えるだけ無駄なこと。今の自分にできることだけをしよう、そう考えました。
僕が座右の銘にしているのが、以下の言葉です。
この言葉を「つまらないと思う事柄でも、考え方を変えたら面白くなる!」そんな風に捉えています。ポジティブ・シンキングです。
三つ目はボードゲーム。ばなうたでボードゲームに出会い、僕の新しい趣味となりました。
ボードゲームは人を繋げるコミュニケーションツールだと思っています。オフ会はもちろん、デイケア・作業所・友人との集いなどに持参してみんなで遊びます。喜ばれますし、僕自身も楽しんでいます。老若男女問わず一つになれる気がします。
無数にあるボードゲーム中から買うのを選ぶ段階で、「あの人とやったら絶対楽しいだろうなぁ!」なんて妄想する楽しさがあります。
ルール覚えるのがちょっと難しいゲームもありますが、それもまた脳トレの一つ!
みんなで集まって顔を合わせてゲームする楽しさは、筆舌に尽くしがたい喜びがありますよね。
最後に
お読みいただき、有り難うございました。ぜひオフ会にも遊びに来てくださいね。
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